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学童保育の仕事を体験して変わった自分に気づいた
私は50代半ばで約1年半の間、地元の学童保育の仕事を経験しました。子どもと接する仕事は全く未経験でしたので、まさに未知の世界へ飛び込むような体験でした。今はその仕事には就いていませんが、相変わらず教育現場で起きている事件や事故などのニュースを見ていると、学校教育の根本的な在り方を見直す必要があるのではないかと思わざるを得ません。
教育現場で起きている「いじめ」などの問題も、私のように子育てが終わった世代にとっては縁遠い世界の出来事のように思えていましたが、学童保育の仕事に携わったことで町で見かける子どもたちを見る目も自然と変わってきたように思います。全く知らない他人の子どもであっても、「お友達と仲良くしているか?」「危ないことはしていないか?」「社会のルールやマナーをきちんと守っているか?」など、ついつい見守っている自分がいることに気付かされるのです。たった一年ほどの学童保育の経験でしたが、身近な地域の子どもたちを見守るクセがついてしまったのかもしれません。
教育ってなんだろう?
そんな時、ふと「教育ってなんだろう?」「学校って何をする場なんだろう?」「先生は何を教える人なんだろう?」と思うようになりました。
学校は勉強を教えるだけの場なのでしょうか?例えば、小学校では授業で国語・算数・理科・社会などの学習指導をしているわけですが、先生は子どもたちに勉強を教えるだけじゃなく、人間として当たり前のことを教える生活指導も行っているはずです。そして、その生活指導は本来、家庭や地域社会においても子どもたちに行われているべきはずのものだと思います。
私が経験した学童保育は、放課後の子どもたちを預かる場でしたので、勉強を教える塾とは違い、親が仕事を終えて迎えに来るまでの間、宿題をしたり友達と遊んだりする場を提供するというもので、まさに子どもたちを見守りながら、時には生活指導に当たるようなことを注意したり指導していたわけです。文房具を振り回している子どもを見かけると危ないからやめさせ、他の児童への意地悪な言動を見かけると注意していました。40人前後の子どもたちを常に3人以上の指導員で見守っていたわけです。
でも、学校では授業中以外の休み時間、給食の時間、お昼休みなどは子どもたちだけで過ごしていることが多く、大人は誰も見守っていることはないのが普通です。これだけ「いじめ問題」が大きな問題になっているのに、学校という教育現場は何も変わらないのはなぜなのでしょう?疑問に思わざるを得ません。小学校でも学童保育と同様に1クラス40人ほどの児童を3人の先生で見守るようにすればいいのに・・・と思うのは私だけでしょうか!?3人で1クラス40人を担当することができれば、1人の先生が授業を進める学習指導を担当し、あとの2人で生活指導を担当することができます。休み時間やお昼休みの時間も、交代で教室内の子どもたちの様子を見守ることができるはずです。
子どもの生活指導の原点は「見守り」
私は、学童保育の仕事をしていた時、先輩の指導員から教えられたことがあります。「子どもたちが怪我をしたり、泣いたりしている時に、なぜ怪我をしたのか?なぜ泣いているのか?を指導員が自分の目で見ていることが大切なんだ」ということです。指導員が誰も見ていなかったら、なぜ怪我をしたのか?なぜ泣いているのか?は、その本人やその近くにいる子どもたちに聞くしかありませんが、その場合、子どもたちの話から必ず真実が判明するとは限らないからです。自分の都合の悪いことは言わない子ども、思い込んだことを真実のように話す子ども、ウソをつく子ども、説明力が乏しくてたどたどしい話をする子ども。そいうい子どもたちの話だけから真実を突き止めるのは、とても困難だということを私は学童保育の現場で何度も実感したのです。だから、指導員は自分たちの目でしっかりと何が起きたのかを見守っているのです。指導員が真実を自分の目で確認していれば、問題が起こった時にすぐに注意したり指導をしたり、次の行動に移ることができます。しかし、真実が曖昧で不確かな場合は、加害者らしき子どもと被害者らしき子どもに握手させて仲直りさせるという形式的な手仕舞いしかできないのです。
ところが、小学校では「大人が子どもたちを見守る(言動を観察する)」という教育の大前提のことが疎かになっているように思います。子どもの人数に比べて先生の人数が少ないということも原因のひとつではありますが、そもそも「子どもたちを見守る」ということに重きを置いていないから、40人の子どもを一人の先生が担当するという体制が今も変わらないままなのではないかと思えてなりません。そして、「いじめ」など何か問題が起きると、子どもたちに話を聞いたりアンケートをしたりしているのです。私には、真実にたどり着くことをはじめから諦めているとしか思えないのです。
閉鎖的な教育現場をもっとオープンに!
私は、ふと、最近の教育現場はどんな雰囲気なのか?という疑問を持つことがあります。でも、実際の小学校の授業風景を見る機会は私にはありません。授業風景を見れるのは、学校に通っている子どもの親だけ、それも、学校側が指定する授業参観日だけなのです。なぜ、学校という教育現場は、こんなに閉鎖的なのでしょうか?見られて困ることは何もないと思うのですが・・・。
私は、幼稚園・小学校・中学校などの教育現場は、大人がいつでも誰でも見学できるようにすべきだと思うのです。子どもの親はもちろんですが、その地域の大人なら誰でも好きな時に見学できるようなオープンな環境で教育すべきだと思います。
教育現場をその地域の人たちにオープンにすることによるメリットは、とても大きいと思うのです。例えば、先生や児童に緊張感が生まれます。特に、先生に与える緊張感は大きいかもしれません。また、大人の目が増えることによって子どもたちの見守りが強化されることも疑う余地はありません。仕事の都合がつかずに授業参観に来れなかったご父兄も、都合の良い日にいつでも授業を参観できるということになります。
大人は、授業中は後ろで聞いているだけだとしても、休み時間や給食の時間は子どもたちと一緒に交わるようになれば、さらにメリットは大きくなると思います。子どもたちを地域ぐるみで育てていくという意識が強まるからです。時には、地域の大人が授業で竹とんぼ作りを教えたり、お店で接客体験を教えたりするような授業をするようになっていくかもしれません。地域の中で学校の壁がなくなり、地域の大人たちがみんなで子どもたちを見守り育てていくということが、教育の理想だと思うのです。先生の人数が足りなくて、生活指導の担当の先生を置くことが難しい場合でも、常に地域の大人たちが学校に来て子どもたちを見守ってくれれば、生活指導を地域の大人に担当してもらってもいいわけですから・・・。
もうひとつ、私が学童保育の仕事を経験して感じたことがあります。勉強を教えるという「授業」は、40人の子どもたちに1人の先生が教えるという形態が通用したとしても、「生活指導」というものはなかなか同じようにはいかないということです。生活指導は、その時その時の一人一人への個別指導が一番良いということです。例えば、「言葉によるいじめや嫌がらせ」と言ったことに関しても、先生から「人を傷つけるようなことは言わないようにしましょう」と言われていても、知らず識らずのうちに傷つけることを言ってしまうことがあります。そんな時、間髪入れずに、「今の君の言葉で嫌な気分になったお友達がいるんだよ」っていうことを言い聞かせることが重要だと思うのです。
学校から「いじめ問題」をなくすために
学校で「いじめ」問題が発覚すると、必ず、「いじめ」があったのかなかったのか?ということ、つまり、「いじめの認識」がまず問題となります。これを解決するための一番簡単な方法は、学校の至るところに「テレビカメラ」を設置することです。そうすれば、少なくとも学校の中で起きている「いじめの現場」を映像で確認することができるようになるはずです。子どもたちをカメラで監視するということに反対する声もあるかもしれませんが・・・。それが難しいのなら、もっと先生の人数を増やして子どもたちを見守る大人の目を増やすべきだと思います。
今や街中の至るところにテレビカメラが設置されているのです。学校だけダメという理由はないと思います。でも、地域の大人の人たちがいつでも子どもたちを見守れるオープンな教育現場になれば、テレビカメラを入れる必要などないことは言うまでもありません。
もうひとつの問題点は、先生が忙しすぎるということです。学校の先生は、今や残業代もつかずに過重労働させられている「ブラック」と言われるようになり、なりたくない職業の上位に挙げられるようになりました。大学の学部別では教育学部が最も人気が低くなり、学校の先生の質が低下していると囁かれています。
この問題を解決するためにも、1クラス3人程度の先生が担当すべきなのです。しかし、学校の先生という仕事がキツくて人気が低下、先生のなり手が不足、学校のいじめ問題が跡を絶たず、教師は過労で体を壊す…という悪循環に陥ってしまっているのです。
だからこそ、学校を地域社会にオープンにして、地元の大人たちの助けを借りてでも学校内を健全な環境に改革していく必要があるのです。
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