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「いじめ問題」に対する素朴な疑問
「いじめ問題」を取り上げているニュースを見るたびに思うことがあります。
- なぜ「いじめ問題」は減らないのだろう?
- なぜ、学校の先生は、学校の中で起こっている「いじめ」に気が付かないのだろう?
- それどころか、なぜ学校や教育委員会は「いじめ」を隠蔽するのだろう?
- なぜ、学校は「いじめ」防止に向けて何も変わらないのだろう?
- なぜ、教育の現場が「子どもファースト」でないのか?
もしかしたら、私と同じ疑問を持っている人は多いかもしれません。それぐらい、ニュースを見るたびに「またか・・・」と思える大人たちの無責任な対応が何度も繰り返されているからです。これほど理不尽な事件が何度も繰り返されているにもかかわらず、学校の現場は旧態依然として何も変わらないことが不思議でなりません。この疑問の回答が容易に見つかるのなら、今頃はとっくに対策が講じられて改善されているはずなのかもしれません。それほど、この問題は根が深いということかもしれません。
私は、学童保育の仕事に1年半近くかかわったことがきっかけで、「いじめ問題」にも興味を持つようになり、いくつもの疑問を抱くようになったのです。ここでは、これまでに経験したことや調べたこと考えたことを踏まえて、自分なりに疑問に対する回答をまとめてみました。もちろん個人的な見解の域をでません。また、推論も多分に含まれています。また、既に「いじめ問題」に真摯に取り組んでいる学校には適さない内容であることも前もってお断りしておきます。
先生は子どもたち一人一人をしっかり見ていない!?
ひと言で言えば、「学校の先生は忙しすぎる」ということかもしれません。1クラス40人前後の児童を1人の先生が担任として受け持っているケースを想定します。学童保育の仕事をした経験から言うと、1クラス最低でも3人ぐらいの先生で受け持つぐらいが適当ではないかと私は思っています。そんなことをしたら、先生の人数が大幅に不足してしまうというご指摘が想定されますが、従来の担任以外の2人の先生は生活指導を専門に行うことにすれば、教員免許がなくても対応できるのではないかと思います。
「いじめ問題」は授業中には起こりにくいものだと思いますが、先生は授業が終わればさっさと職員室へ帰ってしまい、教室は子どもたちだけとなります。それならば、授業が行われていない時間(休み時間やお昼休み時間など)にも、教室に生活指導を担当する先生が子どもたちを見守っていることが必要だと思うのです。
授業中は40人近くの子どもたちを前にして授業を進めることで先生も頭がいっぱいになっているはずです。そんな先生にとって、目の前にいる子どもたちは「森」と一緒で一本一本の「木」が見えていないのではないでしょうか!?いつも元気な子どもがしょぼんとしていても気が付かない、あるいは声もかけないということが日常あたりまえのように起こっているのではないでしょうか。先生とひと言も話をしない日が何日も続くという生徒がいるとしたら、それはコミニュケーション不足であると思うのです。
一人の先生が、毎日、授業をこなして、そのうえ生徒一人ひとりの様子を丹念にチェックすることなどできようはずがありません。だからお手上げと言って、最初から諦めるのではなく、大人の人数を増やして子どもたちをしっかり見守る体制を作るべきだと思います。私が先生なら、自分の学校で起こっている重大な「いじめ事件」の存在がアンケート調査の結果を見るまで解らないとしたら、それはとても情けないことだと思うのです。
喧嘩・もめ事への対応の仕方に問題があるのでは?
子どもたち同士の間で喧嘩や言い合いになったりもめ事が起きた時に、先生はどんな対応をしているのか・・・とても気になります。両方の言い分をきちんと聞いて、さらに周囲で見ていた子どもからも話を聞いて、なぜもめ事が起きたのか?子どものどういう気持ちがどういう行動を引き起こし誰を傷つけてしまったのか?という事実関係をきちんと整理して、子どもたちに適切な指導をしなくてはなりません。
私も学童保育の仕事をしていた時に経験しましたが、子どもたちの話から事実関係を突き止めるのは容易なことではありません。しかし、この面倒なことをきちんと対処して公平に対応しないと、子どもは先生を信頼しなくなってしまいます。ましてや、一人ひとりの子どもの気持ちを察することもなく、やみくもに握手をさせて仲直りさせるという対処法が行われているとしたら、それは子ども一人一人と向き合っていないということに他なりません。先生が一人で何もかも抱えて忙しすぎるということならば、やはり先生の人数を増やして子どもたちの見守りと生活指導を強化する必要があると言わざるを得ません。
過去の「いじめ事件」でも、安易な握手によるうわべだけの仲直りが、かえっていじめ被害者を追い詰めたというケースがありました。
なぜ、「いじめ問題」が隠蔽されるのか?
学校や教育委員会が「いじめ」の存在を隠蔽するということが往々にしてあります。なぜ、隠蔽するのか?よく言われている理由は、「いじめ」があったということになると、先生の評価あるいは校長先生や学校の評価が落ちるから・・・というものです。だとすれば、それは保身行為であり、決して許されるものではありません。本来なら、そういう保身行為を行った先生や学校にこそ厳しい評価をすべきだと思います。
私が感じるもう一つの理由は、学校が「隠蔽しやすい環境にある」ということです。学校は先生の行動を監視する体制がありません。中学生や高校生ぐらいになれば、生徒が先生の言動を監視する力が自然についてきますが、小学校では生徒による先生の監視を期待することは難しいでしょう。また、先生が授業中以外の時間で子どもたちを見守ることを前提としていないから、「いじめがあったのではないか」と指摘されても「知らなかった」「気づかなかった」と言える環境にあるのです。
もし、学校が地域社会に対してオープンで、生徒の父兄や地域の大人たちがいつでも授業を参観したり校庭で(まるで公園のように)過ごしたりできるようになれば、どうでしょうか。子どもたちの様子、先生の言動が、外部の大人たちの目にさらされることになります。先生にとっては緊張感が高まることになるかもしれませんが、子どもたちにとっては地域の人たちと交流が生まれるかもしれません。校庭が体育の授業の時間以外は、まるで公園のように地域の人たちに開放され、地域社会で子どもたちを見守るという意識が自然に醸成されるのではないでしょうか。
現在の学校は、地域社会と隔絶された箱のようなもので、その中で起きていることが外部からは全く見えないブラックボックス状態にあるのです。これこそ、「いじめ事件」が起こりやすい温床であり、先生たちが「いじめ」を隠蔽しやすい温床でもあると思えてなりません。
学校が旧態依然として変わらない理由
小・中学校は、私立の進学校へ行かない限り、通常は住んでいる場所で学校は決まってしまいます。つまり、生徒は小・中学校を選べないのです。役所と同じです。医者や銀行やスーパーなどは、利用者が選択できるのに学校と役所は選択の余地がないのです。企業だったら、利用者がいなくなったら潰れてしまいますが、公立の小・中学校は特殊なケースを除いて、利用者離れによって潰れることはありません。だから、変わる必要がないのです。でも、本当にそれで良いのでしょうか?
もうひとつ、私が感じている理由があります。それは、学校や教育委員会といった組織が封建的な縦社会だということです。日本が封建的な社会だったころから、目上の人が目下の人を教育してきました。そんな社会においては、目上の人の言うことには逆らえなかったのです。そういう封建的な上下関係の名残が今も教育現場に残っているのではないでしょうか。だからこそ、今の学校の在り方に問題提起を投げかけることは、目下の者が目上の者に逆らうことになり、封建的な教育現場ではありえないことなのかもしれません。
私は、これまでに学校のあるべき姿として「先生の人数を増やしてしっかり子どもたちを見守る必要があること」「学校と地域社会の壁をなくして学校をオープンな環境にすべきこと」を指摘しました。しかし、封建的な社会の中でそんな指摘をすれば、おそらく「自分たちの若い頃は忙しくても身を粉にしてやってきたのだから、若い者がそんな甘えたことを言うな」と諌められるに違いないでしょう。
でも、よく考えてみてほしいのです。何が正しくて、何が間違っているのか?その判断基準は、「そもそも学校は誰のために在るのか?」ということです。もちろん、その答えは、「学校は子どもたちのために在る」というものです。だとするならば、何が正しくて何が間違っているのか?という判断基準は、「子どもたちにとって良いことか、悪いことか?」ということなのです。つまり、学校の在り方を考える時には、「子どもファースト」であるべきなのです。現在の「大人ファースト」から考え方を180度変えていく必要があるのです。